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服好きに好まれる焼き物「濱田窯」ちゃんとおさらい 【前編】
あ、見た事ある!という方も多い? リンとした空気と独特のぬくもり感が同居する濱田窯。その個性からか、とくに服好きに好まれる焼き物です。ウラ話も交えて徹底解説致します!
[濱田窯]
住所:栃木県芳賀郡益子町益子3387
民藝運動を牽引した一人である故・濱田庄司が、1931年に開いた窯。益子は元々、日用雑器の産地であったが、濱田窯の隆盛により日本を代表する窯場となった。初代が確立した技法や作陶スタイルは、次男の晋作氏とその次男の友緒氏らによって、脈々と継がれている。
[濱田窯]の歴史






ほんの少しだけ立ち止まって……見たい
[Q&Aでおさらい]“濱田窯の全貌”
「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」‐濱田庄司
偶然性に頼りながら、その実、卓越の技巧と美意識が求められる流し掛けの技法は、濱田庄司の十八番の一つだ。
[Q1]濱田窯はどうやって生まれたの?
[A]人間国宝・濱田庄司が多くの出会いを経て開窯
民衆的工藝に美を見出し、価値を高めた民藝運動の立役者。右から、濱田庄司、柳 宗悦、河井寛次郎。
後に重要無形文化財の保持者となる濱田庄司について語るには、民藝運動への言及は避けられません。民藝運動とは、志賀直哉らとともに同人誌「白樺」の創刊に携わった思想家の柳 宗悦が中心となって始めたムーブメント。
それまで価値のない下手物とされていた無名の職人の日用雑器に美術工芸品とは異なる美を見出し、その価値を向上せんとするものでした。
柳と親交のあった濱田庄司は、学校の先輩である河井寛次郎や、バーナード・リーチとともに柳の思想に共鳴。全国の窯場を回り、作陶の新しい技術を貪欲に吸収しながら、持てる技術や民藝の思想を説いて回りました。
その経験を経て、1931年に益子へ開いたのが濱田窯。ここで作陶に励んだ彼は、名品を輩出するとともに、その技術を後世へ継いだのでした。
濱田窯では、蹴りロクロと呼ばれる足で回すロクロを現在も使う。微妙な力加減が利くため、細かな表現がしやすいのだとか。
斜面を利用した登り窯では、春と秋に焼成が行われる。薪を用いる昔ながらの手法で焼成されるうつわもあるのだ。
[Q2]同じ濱田窯でも作風がさまざまなのはなぜ?
[A]全国津々浦々の学びが入り交じっているから
濱田庄司が民藝の指導者として全国の窯場を回っていたのは、前に述べたとおり。ですが彼の歩みを紐解くと、学校卒業後に勤め釉薬などの研究に励んだ京都市陶磁器試験場にはじまり、同志バーナード・リーチからの誘いで渡った英国セント・アイヴスのリーチ・ポタリーなど、民藝の普及に身を投じる以前にも、多様な場で作陶を学んでいたことがわかります。
十八番の1つである流し掛けの技法には英国のスリップウェアの影響が色濃く感じられますし、彼は沖縄のサトウキビをモチーフにした文様もよく描きました。濱田窯の表現が多彩なのは、津々浦々の学びが生きているからなのです。
英国へ渡り、当地ならではの作陶技術を得た濱田庄司。写真は伝統のスリップウェアを抱えた同氏。
英国のスリップウェアや沖縄のやちむんなど、さまざまなうつわの技法を学んだ庄司。写真は別の窯で焼かれたもの。
[Q3]現代ではどういう評価を受けているの?
[A]ロエベが注目するほど世界に認められた存在
濱田窯の表現が多彩である理由を述べましたが、もう1つ、伝統を大切にしながら常に新しい表現を模索する姿勢も理由に挙げられるでしょう。三代目として濱田窯を率いる濱田友緒氏の作品からも、そんな枠にはまらない精神が如実に感じられます。
また友緒氏は、益子町の使節団として英国へ渡り、リーチの没後に途絶えていた英国との交流を再開させたり、ハーバード大学で講演や陶芸の実演を行ったりと、濱田窯のさらなる発展、ひいては日本の民藝文化を広めるために世界を股に掛けて精力的に活動。
ロエベのデザイナーであるジョナサン・アンダーソン氏から、ブランドをイメージした花瓶制作の依頼を受けたこともあるというから、世界に認められた存在といって過言はないでしょう。近年は深澤直人氏がデザイン監修を手掛ける益子焼ブランド「BOTE&SUTTO」の制作に携わるなど、活躍の場をさらに広げています。
美大で彫刻を修めた三代目の濱田友緒氏は、国内外で多くの個展を開催。作品の芸術性が高い評価を得ている。
※表示価格は税込み
※掲載の焼き物は、ビームス ジャパン フェニカ スタジオにて取り扱いあり。
※ただし掲載のものがあるかはタイミングによる。価格は参考価格、変動の可能性があります。
[ビギン2024年5月号の記事を再構成]スタッフクレジットは本誌をご覧ください。