江戸では「チャラい」の象徴だった⁉ 雪駄をさらにパンクにアウトローに[前編]【#ビギニン43】
時代のニーズや変化に応えた優れモノが日々誕生しています。心踊る進化を遂げたアイテムはどのようにして生み出されたのか?「ビギニン」は、そんな前代未聞の優れモノを”Beginした人”を訪ね、深層に迫る企画です。
世界のファッションシーンで注目を集める和服。逆輸入的な発想で、着物や足袋などを参考にデザインされたアイテムが日本でも人気です。その一方で、伝統製法を受け継ぐ作り手不足は深刻な状況。“雪駄”を取り巻く環境も例外ではありませんが、一人のパンクロッカーの登場によって、その状況は少しだけ変わり始めています。
今回のビギニンは、音楽と雪駄をこよなく愛する壽ん三(すんさん)さん。“チャラい”の語源とも言われる、時代の流れで絶滅しかけていた“棟梁履き”をアレンジし、“喧嘩雪駄”というニュージャンルとして復活させた製作ストーリーを紹介します。
今回のビギニン
寿々木商店 壽ん三(すんさん)さん
神奈川県生まれ。和楽器パンクロックバンド「切腹ピストルズ」の三味線担当。バンド活動のかたわら、2023年春から雪駄師としての活動を本格化。2022年12月に都内から栃木県に移り住み、雪駄工房「寿々木商店」をオープン。雪駄の修理からオリジナル雪駄の製作まで行う。
Idea:
草履界の王様⁉ 雪駄にひと目惚れ
はじめは雪駄ではなく、下駄に興味があったという壽ん三さん。そのきっかけは壽ん三さんの所属するバンド「切腹ピストルズ」の衣装が和装化したこと。今も野良着や法被を羽織り、足元は下駄のスタイルで三味線を引いています。

「切腹ピストルズ」のエレキギター担当“壽ん三”として活動を始めたのは、2000年ごろ。当時の楽曲は、三味線やお囃子のサンプリングを生演奏に重ねる、激しいパンクロックが中心でした。しかし、2011年の東日本大震災を経験して電源が必要な楽器に限界を感じ、和楽器を使うように。演奏スタイルに合わせて、だんだんと和装に身を包みステージに立つ機会も増えました。
そのスタイルは今も変わらず、約20名の“隊員”と共に壽ん三さんはバンドを続けています。2018年にアメリカのタイムズスクエアで行った路上演奏の動画は、YouTube再生数330万回以上。独自の世界観は国境を越えてファンを魅了しています。
壽ん三さんが雪駄に魅了されたのは、下駄を求めて浅草の問屋街に繰り出し、履物屋を物色していたとき。ショーケースにディスプレイされていた雪駄の佇まいを見て、驚いたんだそう。
「安くてカジュアルに履けるところが魅力だと思っていたんですけど、一足何万円もしていて。そこの店主によると、草履のなかでは王様的立ち位置だというんです。で、合わせて教えてもらったのが、底に本革を使用しているものを本雪駄と呼ぶこと。なんだか、かっこいいでしょ? それまで下駄一本でしたが、雪駄にも興味が湧いてきたんです」
音楽活動の傍らアンダーグラウンドな下北沢の古着屋で働いていた壽ん三さんは、そもそも昔からシューズに目がありません。今も工房には、下駄や雪駄に加え、レザーブーツもずらりとコレクションされています。しかしここまで雪駄にのめり込んだ理由は、そうしたバンド活動や趣味趣向のみならず。雪駄が持つバックボーンも大きな魅力でした。
Trigger:
火事と喧嘩は江戸の華。雪駄にみる“パンク”精神
一説によると、雪駄は室町時代の末頃に誕生したとされています。竹皮を編み込んだ本体部分(通称:オモテ)の裏側に本革を張って、踵に鉄製の“ベタガネ”を設置したのが基本のスタイルで、それを本雪駄と呼びます。考案したのは、あの茶道の祖“千利休”だと言われ、雨や雪の降る日に履かれていました。
ベタガネと地面が擦れたときに鳴る音も、本雪駄の特徴。チャラチャラと響かせながら街を歩くのが粋なスタイルとされ、江戸時代になるとトレンドに敏感な若者世代の定番に。容姿や言動が軽い人を“チャラい人”といいますが、その語源はここから来ているという話も。着用者によってソールの枚数に違いも生まれ、一枚重ねの雪駄は役者や芸人が、ソールを重ねて高くした雪駄は祭事の際に身分の高い人が履くようになりました。
また、血気盛んな街の荒くれ者も本雪駄を愛用するように。喧嘩が勃発した際は、本雪駄を脱いでベタガネ部分を武器にして、相手を殴っていたとかいないとか。そうした本雪駄のもつ“パンクなカルチャー”が、和風パンクロックバンドの三味線担当兼ギタリストのハートにクリティカルヒットし、自作を志すようになりました。



ギターを分解して音を調整したり野良着をリペアしたり、モノづくりが得意だった壽ん三さんは、雪駄も自分で作るべく行動に移ります。まず、片っ端から古い雪駄をバラし、その構造を研究。オモテや製作道具、ベタガネなど必要な材料は、独自でルートを探し当て、一つずつ集めていきました。大まかな作り方は後編にてお伝えしますが、壽ん三さんは自己流の雪駄作りを確立していきます。


“棟梁履き”と出会ったのは、壽ん三さんが雪駄作りをある程度習得した1年くらい前の話。バンドの巡業で訪れた栃木県の村に住む火消しの棟梁から、作り手がいなくなり入手困難となった“棟梁履き”の製作を依頼されました。
棟梁履きは、通常よりも前ツボ(鼻緒の前緒をすげる穴)の位置が踵寄りになっていて、この仕様を“ツボ下がり”とも呼びます。さらには、つま先の方がギュンと反っているのも特徴の一つ。踵を突き出して引っ掛ける着用スタイルで、位の高い棟梁だからこそ履ける一足です。

「そこがめちゃくちゃに粋でカッコいい。でも、本雪駄と違ってソールはゴム製だったんです。実用性を高めるための仕様なのはわかるんですが、本革ソールに変えた方が断然イケてるし、せっかくならオリジナリティのある雪駄をつくりたかった。それで、棟梁履きをベースに本雪駄の要素を掛け合わせた“喧嘩雪駄”のアイデアを思いついたんです」
そして、それは壽ん三さんが拠点を東京から栃木に移したタイミング。もともと精肉店だった場所を、作業スペース兼店舗にリノベーションして、バンド活動と雪駄職人の二足の草鞋を履くための生活基盤を整えたところでした。
「これ作れるようになったらいいよねって思って。なんか見た感じ、簡単そうだったし。軽い気持ちで始めた雪駄作りだったんですが、これが意外と大変でね。自己流で技術を磨いたのは、そうするしか方法がなかったからなんですよ(笑)」
技術の習得に費やしたのは約10年、壽ん三さんに師匠と呼べるような人はいません。修行期間中の苦労話は、後編にて。オリジナルの喧嘩雪駄は、長年磨いてきたパンク精神があったからこそ誕生した一足です。
後編:超秘密主義。業界から弾き出される に続く。
反り返ったつま先部分が印象的な棟梁履きをベースに、ソールを本革にアレンジ。オモテは山形県で編まれている野崎白型で、履き込むほどに柔らかくなり足になじむ。白い牛革を使用した鼻緒や踵に施された赤い糸の刺しゅうで飛び散る血の飛沫を表現。“雪駄が喧嘩の際に武器として使われた”というエピソードから着想を得たデザインで個性を演出する。八寸三分(24.5cm〜)九寸(26.5cm〜)。3万5000円。



(問)寿々木商店
https://edomaruichi.thebase.in/
※表示価格は税込み
写真/丸益功紀 文/妹尾龍都