特集・連載
1995~2000年:モードとスニーカーの融合
モードのカジュアル化事変は「インスタポンプ」から始まった!
傑作スニーカーの超現代ヒストリー '90s~2010年代編 1900年代から始めるのがスニーカー史のセオリーですが、今回は雑誌ビギン創刊の1988年を起点に超現代をフィーチャー! この記事は特集・連載「傑作スニーカーの超現代ヒストリー ’90s~2010年代編」#06です。
今でこそメゾンとスニーカーの結びつきは珍しくありませんが、モードはもともとは貴族のためのファッション。じつは’90年代半ばまでは、スニーカーがランウェイを歩くなんてことはありえなかったんですよ!
1995年
スニーカーがランウェイ初陣!
REEBOK[リーボック]
インスタ ポンプフューリー
’90年代は雑誌の発展から、コレクションの情報が大衆化。元は貴族向けだったモードの世界もカジュアル志向を見せるように。’95年にウォルター・ヴァン・ベイレンドンクが、ポンプフューリーをショーに起用したことが、先駆的な出来事となった。上は現在も購入可能なモデル。1万9800円(リーボック アディダスお客様窓口)
ウォルター・ヴァン・ベイレンドンク
ウォルトのデザイナーで、’95年のショーでポンプフューリーを起用。弟子であるラフ・シモンズは氏のオフィスで働きファッションに興味を持ったとか。
1997年
ラフ・シモンズがオールスターを起用
CONVERSE[コンバース]
オールスター
旧態依然のモードに迎合しなかったラフ・シモンズは、自身が街で見つけた若者をモデルに起用。足元に黒いキャンバスのオールスターを使ったルックで衝撃を与える。大衆的なバスケットシューズがモードのランウェイを歩くのは画期的なことだった。上は購入可能なモデル。6380円(コンバースインフォメーションセンター)
ラフ・シモンズ
ウォルター・ヴァン・ベイレンドンクの弟子。1995年に自身の名を冠した「ラフ・シモンズ」を発表。’95年当時のコレクションでも、すでにコンバースやヴァンズを使っていたといわれている。
1998年
メゾンブランドのオリジナルスニーカーが登場
PRADA SPORT[プラダ・スポーツ]
プラダではバックパックをはじめ、ブラックナイロンのスポーティなアイテムがメンズに浸透。こうした流れから’98年にプラダ・スポーツを展開。メゾンでは異例となるオリジナルのスニーカーを発表し、赤のブランドロゴをあしらったスタイリッシュなモデルが脚光を浴びた。
ミウッチャ・プラダ
創業者マリオ・プラダの孫娘で、1978年に28歳の若さでデザイナーに就任。1998年の秋冬シーズンには、「プラダ・スポーツ」を発表した。後にラフ・シモンズと共にプラダのディレクターに就任。
1988年
ハイブランドとスポーツメーカーが初めて協業
JIL SANDER×PUMA[ジル サンダー×プーマ]
アヴァンティ JS
ジル サンダーの“ショーでプーマのサッカースパイクを使いたい”との要望から、プーマはペレが愛した「キング」のアッパーにランニングソールを組み合わせて「アヴァンティ JS」を開発。ハイブランドとスポーツメーカーのコラボは、センセーショナルな出来事だった。
ジル・サンダー
ミニマルの女王と呼ばれるドイツ人デザイナー。プーマとのコラボを発表後、人気絶頂期の2000年にプラダグループの傘下となった。
2000年
続々とハイブランドによるスニーカーが登場
PUMA by MIHARAYASUHIRO[プーマ バイ ミハラヤスヒロ]
プーマはミハラヤスヒロなどともコラボを発表。下の通り、トム・フォードがデザイナーを務めるグッチ、ジュンヤ ワタナベ・コム デ ギャルソン マンなどその後続々とハイブランドがスニーカーを発売。ハイブランドによるスニーカーが当たり前となっていった。
ミハラヤスヒロ
日本のファッション界を牽引するデザイナー。原点はシューズブランドで、2000年にプーマとのコラボを発表。世界的に人気を拡大した。
2000年~続々とハイブランドによるスニーカーが登場





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[ビギン2022年2月号の記事を再構成]スタッフクレジットは本誌をご覧ください。